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Examine Your Zipper…

タイで父を聞いたこと

私はこの記事を、バンコクから遥か北へ行く汽車の中で書いている。

狭い電車の中でパソコンを開いている人は僕だけであり、何ならこの車両は乗り込んだ時から僕しか居ない。

隣に座っているバックパックの中には、5冊の技術本とパソコン、それからたくさんの服が詰め込まれている。

この土地においてエンジニアであることは何の価値も持たない。パソコンは鉄の塊として、本は紙を束ねたものとして私の肩に重くのしかかる。私が無力であることを強く想起させる嫌な重さだ。

 

本来、バンコク市を出る予定は無く、バンコクの中で自分のやるべきことを完遂することが私の求められたすべてだった。だが、現在私はオレンジ色の車両の中で来たるべき出発に備えている。右手は包帯がぐるぐると巻かれておりところどころ血が滲んでいる。

電車の出発は10分以上遅れているが、これぐらいで腹をたてる人は、この国にはいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は共同生活を放棄し、1人でタイを過ごすことに決めた。

理想や理念を目指し続けるより、”共同生活におけるこそこそした裏側”が発生したことに対する理不尽さを容認できなくなった私は、ほぼ喧嘩別れも同然にチームと家を飛び出してきてしまったのだ。

金銭的に余裕が有るわけでも、タイに土地勘があるわけでもない。さらに、夕方に飛び出したことによる空腹感もあいまって、飛び出して200mで後悔が僕を襲った。

背中にのしかかる重さは、いつにもまして自分の弱さを押し出してくるものだった。

異国、気温33℃、湿度80%オーバー、迫る夕闇…

頭のなかの冷静な私は「今すぐに帰って、頭を下げて、暖かい夕食と柔らかいベットを手に入れるのだ」と大きな声で叫んでいた。

 

僕は意地を張った。

良く言えば「自分がこれ以上手を動かす理由がない。自分の判断が、後々を大きく変えるのだからここで帰る訳にはいかない」という美化がなされるが

状況的にどう考えても阿呆だと思う。この判断はなんと5時間後に、はじめての悔し涙という形で後悔に変換される。

 

 

 

私ははじめに知人を頼ることにした。

タイに住む2人の偉大な先人を全力で頼る方法を選んだ。

 

1人はタイでシェアハウスを営んでいる大先輩だ。

事情を話すと、快く住む場所を提供していただけたことに私は今でも感謝している。

私は一旦安心し、自分の事を冷静に見る時間を手に入れたのだ。

異国で何にも代えがたい物を戴いたと強く感じた

 

もう一人は、父の後輩にあたる人生の大先輩だ。

中学高校の大先輩であり(中学は部活も含めて先輩である)父いわく

何かが起こっても起こらなくてもまず絶対に最初に頼るべき人

だそうだ。現に懐がとても広く、大人の男のあるべき姿とはまさにこの人と言わんばかりのナイスミドルである。今回はHさんと呼ばせていただきたい。

僕は自分のことを整理するために一緒にご飯を食べたいと連絡した。

 

 

私は2人に同時にメールを飛ばした。

ふたりともすぐに返事が帰ってきて

宿と晩御飯を同時に確保することが出来た。

「こんなに楽でいいんだろうか」

とその時の私は本気で思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汽車が動き出した。

動き出すまで、この車両に人が乗ってくることは無かった。なんとなく寂しさを感じる。

木材が無造作に置かれた風景を眺めながら汽車はだるそうにスピードを上げていく。

ペッラペラの切符を握りしめながら外の景色を眺める。

列車の窓はとっくの昔に粉々になったのだろう。破片も残らない窓枠の中を砂っぽい風が流れてくる。

一番驚いたところは線路から30センチの距離に家があることだった。子供が汽車の窓の僕を見て食べ物をせがむ光景をみて

なんともいえないむず痒さが自分を襲う

本の中やテレビの向こうでしか見なかった、自分が知らなかった世界が目の前にある。

観光地のストリートチルドレンはある程度組織化されている話を聞いた。子供はお金を稼ぐ手段として子供使っている話も大概であるが、

窓の外から見える景色はそんな余裕を見せないほど乾いていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

晩御飯はホテルの一階で日本食を用意してくれた。

日本を離れて一ヶ月を超えた私は生魚に飢えていたこともあり、異常に喜んでいた。なにより今のこの状況でお腹いっぱい日本食を食べれる事実が嬉しかった。どこまでも貪欲でおこがましいクソガキを容認してくれる優しさに何度甘えたことだろうか。

日本酒を飲みながらタイでの顛末を話す。

 

「いやぁ、わけあって飛び出て来ちゃったんですよ」

うん。なんとなく分かってた。

 

状況を聞くと、直前までシンガポールに出張だったらしく確かによく見たらとてもお疲れのご様子であった。その中で、勝手に路頭に迷っているクソガキのお誘いを快く受けてくださったのかとおもうと、申し訳無さと自分がやってしまったことの小ささをひどく痛感した。久しぶりの日本酒はいつもよりきつく喉を焼いていった。

「遠慮せず好きなモノを好きなだけ頼みなさい。今日はお酒に流してしまおうか」

その言葉を合図に、私の目的を180°変える晩餐は始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汽車がはじめて駅に停まった。

ホームと呼ぶにはあまりにお粗末な空間から、はじめて私以外の客が乗ってきた。

学生だった。タイの大学生はみんな制服が決まっており、胸元のバッチのみが学生がどこの大学を識別する方法である。このユニフォームは大学の研究対象になるほどタイでは当たり前の光景であるが「統一された制服がもたらす心理的な影響」という卒業論文を書いている学生が友達に出来た事によってはじめて知り得た情報だ。

車内が突然騒がしくなる。全くわからないタイ語という言語のざわめきは不思議と僕を落ち着かせた。

余談だが、ただひたすら北に進んでいる私にとってこの電車がどこまで行くものなのかははっきりとわかっていなかった。その分見ることと聴くことが重要になり、普段からイヤフォンに慣れている耳が、遠くの音を聞くためにいつもより意識していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お刺身5点盛とワカサギの唐揚げの美味しさに絶叫しながら(ワカサギがタイで捕れる事を知らなかった。)話題は共通の人物である私の父に自然とフォーカスが向くことになった。

 

僕は父が30の時の子供だ。父と母は年が離れているが常に仲がいい。両親は会社で会ったことは知っていてもそれ以上のことは何も知らなかった。

まぁ、両親が子供に馴れ初めやらなんなら話すことは無いだろう。

だが父の子どもとしてはあまりにも落第生、親不孝者の私は家にほとんど帰宅しない。研究、飲み会、インターン。学生としての本分+αを全力で謳歌してる私は帰宅も遅く最低限のコミュニケーションすらとれていなかったのだ。

「20歳になったらお酒が飲めるようになって、話の深度が深くなるよ」

といろんなアドバイスを頂いて20を迎えた私だが、不幸なことに僕と父は下戸だ。なんなら父は僕と比にならないぐらいお酒が弱い。ワインゼリーを食べて一日吐いていた父のことを僕は笑っていたが、僕もウィスキーボンボンを食べて一日吐いていた。

悪いところは似るんだよ”と”子供に期待するもんじゃないね”と、父は口癖のように良く言っていてる。

 

そんなこんなで居酒屋に行く通過儀礼もなかった僕にとって今回のHさんの一件は、父と居酒屋に行くような感覚であった。

二回り以上離れた人とサシで飲み屋に行くような経験は僕にとって斬新だったのである。

Hさんは両親と仕事したことがあるらしい。まだ2人が結婚する前から2人を知っており僕が知らないことをたくさん知っているという意味で質問が止まらなかった。

 

「父はどんな仕事をしているの?」

「父はどんな人ですか?」

「父と母はどんな人ですか?」

 

いろんなことを教えてもらった。

父がどんな仕事をしているかはじめて知った。父がやっていることは先進的であり、その業界ではとても有名な人であること。

父はとても口が悪い。だけど口が悪くても愛があること。

そして、頑固であると同時に新しいことを始める時に決して芯をぶらさない人であること。

母は、会社の中でもずば抜けて上品な人だったということ。

営業に出かける他の会社で話題になるほど美人だったこと。

そんな2人の会社での様子。

 

すべてが新鮮で、僕がもしかしたら一生知らなかったかもしれないものの数々だった。

酔いが少し回ってきた。両親のことをひと通り教えていただいた後にHさんが嬉しそうに教えてくれたことがある

 

 

君は、両親の結婚式の話を知ってるか???

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汽車はバンコクを抜けたようだ。

何か標識でもアナウンスが会ったわけでもない。ただ周りに背の高い建物が少なくなり、遠くに見える家々が高床式の様相を呈していたからである。

川を眺めていたはずだったのに気が付けば周りは鬱蒼とした緑に覆われていた。

いつの間にか学生はいなくなり、観光客とおぼしき西洋系の家族がフランス語で楽しげに会話している。

次に止まる駅にはホームが無かった。

なにもないところから突然タイ人の家族が乗車してきた。当然車内に居た全員が驚いたことは言うまでもないだろう。電車は申し訳ない程度に減速していたがそこに飛び乗ることを当たり前としているのだろうか。

鉄道には必ずホームが有り、人がいることろでは必ず減速する。

と思い込んでいただけなのだろう。考え方の変化は喜びとともに自分の中に受け入れられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Hさんは教えてくれた。

「君のお父上は仲間をとても大切にする人なんだ。

酒は消して飲めないけれど、独身寮にいた時に大酒飲の人とよくご飯を食べに行っていたよ。彼は休日になれば一日中飲んでいる人だった。お父上とは真逆の人なのに馬があったのだろう。2人でご飯を食べに行っているとき、彼はいつも烏龍茶で延々とお父上に付き合っていたよ。すごいことなんだよね。これ。

そんな中で、お父上は結婚された。

結婚するということは独身寮を出るということだ。

結婚式がとても良かったことと、独身寮からお父上がいなくなってしまうことの寂しさからかわからないが、彼は号泣していた。二次会用のタキシードに着替えたばっかりの父にしがみつき涙と鼻水でタキシードをグチャグチャにしつつも、お父上は彼の頭をしっかりと抱きかかえた。そのまま最後までスピーチをやりきっていた。

僕が今ここでご飯を食べれているのも、お父上が僕に色々教えてくれたからなんだ。口は悪いけどお父上の発言は全部に意味と愛がある。理解するのは何年も後になってしまうのだけどね。

一件冷徹で頑固な人に見えるかもしれない。だけど仲間をとても大切にする熱いお父上なんだ。」

 

僕は知らなかった。

僕は父のことを何も知らなかったのだ。

反抗することはしても理解するということをずっと避けてきた。

父はいつも僕の前に立ちふさがる壁であり、比較される目の上のたんこぶでしか無意図思っていた。

決してそんなことはなかったのだ。

父と会話することを無意識で避けていることを知った。幼少期から否定されると思い込んでいた私にとってHさんが語ってくれた事実は自分の中で色んな物を想起させた。わずか3分の会話の中で自分の中の父と過ごした時間が激流のように流れてきた。

バンコクから帰りたい」はじめてそういう思いが強くなった。

「父に会わなくては、もっと話さなくては」という焦りが自分を動かそうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

汽車が突然大きく揺れた。

線路の形質が変わったのだ。今までとは違った音を奏でながら汽車はどんどん北へと進む。

汽車に揺られて三時間以上が経過し、そろそろ背中が痛くなってきた。

電車の中で洋服ではない伝統的な衣装を着てる人がいる。スカートが変わった生地で、緑、黄土色、赤色の三色ボーダーだ。そうか。この土地には民族が存在するのか。

当たり前に知っていたことを目にすることで記憶に何かが刷り込まれていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「感性を鍛えることはとても重要だ」

「それは自分が見て、歩いて、触って、感じたことを、しっかり持ち続けることだ。

意図的に鍛えられることでもないが、与えられるだけではなく自分で全部決めて必要なことを捉えることは重要だ。

何かを学んだり知覚することは何も全部が勉強から手に入るもんじゃない。

せっかくタイに来たんだ。残りの時間は自分のやりたいように決めてみたらどうだね。」

 

この言葉が私の目的をガラリと変えた。

行くはずだったシェアハウスをキャンセルし、僕は夜通しで計画を練ることにしたのだ。

ただ、バンコク時間でPM11:00 。はいったカフェは2時間で閉まってしまった。

仕方なくストリートにバックパックを起き、そこで検索を重ねた。携帯はとっくに電池が切れ、カフェのWi-Fiをを求めカフェの外でひたすらに検索を重ねた。バンコクを離れ、北に行くことに決めた。北にはたくさんの民族と村があるそうだ。

そう決めた後、私はバックパックを枕に横になった。

安心してしまった私を眠気が急激に襲ってきた。

 

 

しかし、その瞬間、僕は酔っ払った若者に突然ガラス片を投げられた。

右手でガラスは抑えたもの割れたガラス片が右手の各部に刺さってしまった。

急いでガラス片を口で吸っては出す。それを繰り返し続けた。

私は悔しかった。

バンコクの路上で寝ようと思ってしまったことが。

若者にガラス片を投げさせてしまう自分の迂闊さが。

右手のみでよかったが他のところを怪我したらどうするべきか考えなかったことが。

 

 

 

ただ結果として私の右手は血まみれであり、右手を止血してる間、決意に反した情けなさが異常に悔しかったのだ。

 

 

僕は弱い

 

 

何も出来ない自分が、決意だけじゃ変われないまぬけな自分がひたすらに悔しかった。知識も力も感性も、ちいさな箱のなかでしか育っていなかった事を思い知らされた。

自分の判断が、自分から漂うものが、すべて大したこと無いことをそこで感じた。痛みではない、別の何かで涙が止まらないまま朝を迎えた。

生まれて初めて流した悔し涙をなかったコトにするように私は小さくつぶやいた。

「駅へ向かおう」

僕はまたカバンを背負い歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

汽車が溜池を左手に眺めつつ、右手には雨で削られた山々が見えてきた。

絶景である。携帯の電池が切れていたことをここまで悔やんだこともない。

クロンソーンという場所の名前だけ、聴くことが出来た。いずれ寄ることにしよう。

皆が荷持を手に取り始めた。そろそろ終点が近いのだろう。

 

 

ここで降りた後、僕はどこへ行こうか。